「ワタツミと共に―インドと故郷女川町」


1960年5月24日朝3時過ぎ、町の消防がけたたましい音でサイレンを鳴らし続けた。
親に起こされ家の2階から降りる時に、窓から見た空の色はいつもと違い血の色にも似た朱赤で一面覆われ、異様な恐ろしさが体を包んだ。
何が起きたのか。海岸通りの商店街に沿う県道には近所の住民が皆驚いて飛び出してきた。何が起きたんだと寝ぼけ眼で言い合う。津波が来るらしいと町の長老の一人が言い始めた。チリ地震の大津波が日本に到達した。
町民の誰も分かっていない。日本より1万八千キロも離れた南米チリで前日に起きた地震で津波が時間をかけて、太平洋上のハワイを襲いその後日本へと矛先を向けた。東北三陸海岸一帯がその大波をまともに食らった。
家では37歳の父、60代半ばの祖父が町をまとめるべく対応したが、昔三陸を襲った昭和8年の大津波の記憶があったとは思えない、皆が右往左往していた。町の古老たちが、どのくらいの波が来るのだと、余裕を見せ会話していたのが記憶にある。
多くの民が女川湾の岸壁を取り囲むように集まってきた。波が町に達するには時間があった。海岸の波が大きく引く現象が先に現れ、その引き潮が増して海底が次々に露出し海底の岩石が茶や黒い岩肌を見せ始めた時には皆顔面蒼白、驚きの声を上げた。小学生だった私にも、何か異常なことが起きつつあると感じられ身が引き締まった。  (続きを読む…)

投稿者: 佐々木 洋 英語 1973年卒業

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“「ワタツミと共に―インドと故郷女川町」” への1件のコメント

  1.  就職先が仙台を本拠とする会社だったので、仙台で6年半暮らし、その間家族もできました。そんなことで宮城県には何らかの形で恩返しをしたいと思い、再就職先をリタイアした2012年11月に気仙沼で形ばかりではありますがボランティア活動をしました。そしてボランティアを終え仙台経由で自宅に戻るため、気仙沼から仙台にバスで向かいましたが、惨事から1年半も経ったのに、特に女川近辺は、津波に襲われたままだったことがとても印象的でした。いずれにしても御母堂のご冥福をお祈り致します。

    投稿者: 鈴木 俊明  スペイン語 1972年卒業