最初に幹事引き受けの弁を一言。去年6月4日の林学長を交えたオンライン海外支部会議でも申し上げたことだが、小生は30年前に日本の「御用学者」の職を辞し道場破りのために渡独した関係上一匹オオカミであることは身分証明書の如きもので、特に日本人同士で群れるのは大嫌い、ましてや同窓会などは唾棄すべきものと長らく敬遠してきたという事情がある。それが何ゆえ外語会などに入り幹事を引き受けるまでに「変節」したのかというと、ある時からこの一匹狼性、連帯・結束の欠如、日本人の個の「私」化、さらには「原子」化が他の外国人と比較して国内外を問わず日本人の弱さの最大の原因の一つであることに気づいたからに他ならない。ただしこれはひいてはGNPが昨年ドイツに抜かれて4位に転落し、社会の様々な方面での劣化、人心の乱れがとめどもなく進む今の日本社会の趨勢と深部において通底しているようにも思われる。
それはさておき本フランクフルト支部は、色々ないきさつからようやく去年の2月に小生が幹事の職を正式に引き受けたばかりである。そこでなるべく多くの会員の諸兄諸姉の参加が見込めるようできるだけ魅力的な企画はないかと頭を巡らせた。その過程でちょうど去年はドイツ文学がこの作により史上初めて世界文学の舞台に登場し、ヨーロッパ初のベストセラーになりナポレオンが7回も読みエジプト遠征の際も持参しピラミッドの下で読んだと言われるゲーテの『若きウェルテルの悩み』(1774) 刊行250周年に当たることを知った。そこで、幹事就任後初の外語支部会はまさに今それを祝賀中であるこの作品「誕生」の地ヘッセン州中部、フランクフルトから北へ約1時間ほどの小都市ヴェッツラー(Wetzlar)で開催することに決定した次第で、遅ればせながらご報告したい。https://www.wetzlar.de/microsite/tourismus-blog/wertherjubilaeum/index.php
「ウェルテル年」だっただけあり催しは昨年3月以来12月まで目白押しだったが、6月にヴェッツラーに偵察に行き、予算と会員のご関心・お好み等を考慮して三つの日程を選び、できるだけ多くの方が参加できるよう同じ日の中で部分的参加も可能なように暫定的にプランを作成しアンケートを行った結果、9月8日開催に決まった。プログラムは以下の通り。
1) 9月8日午前11時にヴェッツラー市の大聖堂近くの「ロッテの庭」(Lottehof 、Lottestr. 8-10, 35578 Wetzlar; 「ロッテの家」[Lottehaus]と隣接する市立博物館の前のイベント用の中庭)に集合。
➜ 11時~12時半:展示「【ウェルテルと世界】ゲーテの小説『若きウェルテルの悩み』の250年間に及ぶ国際的影響」(„‘Werther.Welten‘ 250 Jahre internationale Wirkung von Goethes Roman ‚Die Leiden des jungen Werthers‘“ )の開幕レセプションに参加。
https://www.wetzlar.de/microsite/Staedtische_Museen/museen/sonderausstellungen/werther-jubilaeumsausstellung-werther.welten.php (このサイトの右側のリンク“Werther.Welten in den Medien“ をクリックすると主催者のヴェッツラーの市立博物館の館長と学芸員への約15分のインタヴュー(hr2 のPodcast)が聴ける。)
音楽の伴奏付き『ウェルテル』からの抜粋の朗読、専門家や関係者のスピーチ、解説(約1時間)を聞き、その後開幕されたばかりの展示を目の前の市立博物館で見学。
2) 12時半頃~14時頃:近くの大聖堂広場の伝統的な構えのドイツ・イタリア料理レストランで昼食。旧交を温めた。
3) 14時:大聖堂広場の観光案内所 前 に集合。
➜ 14~16時:「ヴェッツラーにおけるゲーテとウェルテルの足跡を辿って」という 我々のグループ専用のドイツ語グループガイドに参加。大聖堂の中で雨宿りをしながら、あるいは旧市街を散策しながら、ヴェッツラー市の歴史、特にゲーテの1772年の滞在目的であった法律実習の場であった神聖ローマ帝国の最高裁判所が当地に置かれた経緯や『ウェルテル』の成立事情、背景についての年季の入ったガイドさんの解説を聴き、作中のウェルテルの失恋の相手であるロッテのモデルとなったシャルロッテ・ブッフが父親と11人の兄弟姉妹と共に住んでいた家で現在資料館となっている「ロッテの家」や、ゲーテが1772年に投宿していた家や、 失恋から自死しゲーテ自身と同じく主人公ウェルテルのモデルとなったヴィルヘルム・イェルーザレムの当時の住居で関係資料を展示した「イェルーザレムの家」(Jerusalemhaus) 等を 見学した。
4) 16時頃~:カフェで歓談。再び旧交を温めた。
当日は、開幕レセプションの開始直後から雨に祟られはしたが、遠路はるばるハイデルベルクやマインツから見えた(中には前日からの泊まり込みで来られた方々もあり)熱心な会員もおられ、また会員のご家族やゲストや新留学生の方々も加わり、総勢12人、老若男女の集う賑やかな会とあいなった。ただ申し訳なかったのは、小生の時間配分の予想の誤りから、当日午前11時からの 開幕式典が長引いたこともあり肝心の展示【ウェルテルと世界】をじっくり鑑賞する暇がなかったことだ。展示を当日閉館まで無料で鑑賞できることがわかっていたら、その後のプログラムをすべて1時間ぐらい後へずらせたのにと悔やまれてならない。しかし展示そのものは今年1月26日まで無料公開されているので、ぜひ再度足を運んでいただいていることを祈るばかりである。この日から12月までこの展示に関する10回の無料のガイドや講演等様々な催しがあり、小生も2回足を運んだが、展示そのものは文字・テキストのみならず供覧されているビデオやAIを駆使した案内ロボットのペッパー君や種々の来館者参加のゲームなどもすべて丁寧に体験すれば2・3時間はゆうにかかる充実したものだった。その中には『ウェルテル』を題材にした日本の幾つものマンガや韓流の映画・テレビドラマや菓子メーカー「ロッテ」(周知のように創業者は在日韓国人の辛格浩氏で作中のロッテに因んで社名を命名した)のチョコやガムの包み紙の展示まで含まれることも付言しておこう。
なお私事にわたる余談で恐縮だが、当日までにぜひかねてよりの念願だった『ウェルテル』の原文読破を達成しようと思いながら果たせなかったのは、前日にこれも念願だった保田與重郎の『ヴェルテルは何故死んだか』を読み始めてしまったからに他ならない。ゲーテの初期の代表作『ウェルテル』のうちに、西洋近代の黎明期における西洋近代それ自体の脱構築と、晩年の『西東詩集』に見られる近東・アジアへの関心・志向、つまり「脱亜入欧」ならぬ「脱欧入亜」ないし「欧亜融合」の伏線を読み取るこの破天荒な異色のゲーテ論は、書かれた1939年当時の世界情勢と戦争へと突き進む日本の政治・文化情勢(「近代の超克」)を顧慮すると注意して読まねばならないが、その文脈から離れ、現在の世界情勢(例えば昨今のウクライナ戦争やガザ戦争)を眺めた時意外とアクチュアリティを持っているようにも思われる。そうだとすると、時代の本質を見通すゲーテの天才的直観の射程距離は21世紀にまで及んでいるということなのかもしれない。実はこの保田の『ウェルテル』論は、上述の一連の講演の一つとして昨年12月6日に市立博物館で開催された東大独文科のシュテファン・ケップラー-田崎教授の講演「世界文学のネットワーク。米国と日本における『ウェルテル』」においても大いに議論の的となった。保田の本書が所詮は30年代の日独に共通する非合理主義的潮流に帰着するものなのか、それとも近代の初めに既に近代の本質的病を看取したゲーテの天才性を洞察した独創的なゲーテ論なのか、今後も激しい論争を呼ぶであろう。一刻も早く保田の本の独訳が待たれる所以である。
会員の諸兄諸姉と共にグループガイドへ参加し展示を見学してみて、そもそも『若きウェルテルの悩み』は本来三角関係からの失恋による自殺という筋書き上はどう見ても悲劇的な陰鬱な小説であり、これがなぜヨーロッパのみならず、世界中のベストセラーになり、ナポレオンのような英雄の愛読書となり、250年祭が祝われ我々のような外国人が押し寄せるに至ったのかは考えてみると謎であると思わざるを得ない。保田のようなウェルテルの自殺の肯定的解釈が出てくる所以でもある。「若きウェルテルは何故死んだのか」という我々の「悩み」は永遠に続くのかもしれない。因みに『ウェルテル』の日本語訳は40-60種類近くあるとのことである。
ところでヴェッツラーは、小生が初めて訪れた34年前からの持論だが率直に言ってドイツの穴場だと思う。日本の一部のマニアにはライカやツァイスの本拠地として、ゲーテないしドイツ文学研究者には『ウェルテル』誕生の地として知られている程度だが、ドイツ語の“apart“ (「独特な魅力を湛えた」)という形容詞がぴったりの街だ。Brückenstr. (橋通り)の橋の上から望むラーン川の絵画的な美しさはいつ見ても息をのみ絶景である。まだ未訪問の方にはぜひ一度足を運ばれることをお勧めしたい。
投稿者: 服部精二 ドイツ語1979年卒業 (フランクフルト支部幹事)