和暦(72侯)では、本日は「草露白(くさのつゆしろし)」、秋も深まるとか。実態はまだまだ、少なくともお彼岸まで待たねば秋の入口は遠し。
最近のTV 画面で、中国習近平氏がプーチンと北朝鮮の金正恩を両脇に従えた格好で軍事パレードを謁見していた(戦勝80周年とか)。
日中関係は、ここ80年とかいう上滑りの単純な歴史ではない。東北生まれの才女、清少納言が、漢詩「白氏文集」を引用した話は高校の教科書で習うレベル、千年以上の長い関係にある。(大体1945年までは、日本は基本、中国共産党と戦争せず、相手は国民党(蒋介石)だった、そのころ共産党軍は大陸に散らばり、来る国民党との内戦に備えただけではなかったのか、日本国民は忘れてませんよ。)
9月9日は、重陽の節句だそうだ。3月の桃の節句。5月の端午の節句に比べれば日本国民の意識は低い。旧暦だから、今でいえば10月半ばころの行事。菊酒で邪気を払うというから、未だ1ケ月も先の話。
日本文化行事を教えている皇室彬子女王殿下の説明を聞けば、宮廷では「着せ綿(菊綿)」の文化が残っているそうだ。
9月9日の前夜に、菊の花に綿を被せ、翌朝、菊の香りと露が付いた綿で身をぬぐうと、無病息災、長生きできるということらしい。
あの紫式部が、同じように着せ綿をテーマに和歌をうたっているというから本当らしい。凡夫の身には、新暦9月9日では、未だ菊の宴とは結び付かないぞ。せめては、お月見の時に、中国流に月餅を食しながら季節の移ろいを楽しむくらい。さて日中関係が今のようにギスギスする前、平成の時代には、もっと文化の香り豊かな善き関係にあったと思い出す。1998年4月だから、もう26-7年も前になるのか。中國が貧しく、日本へ研修生(実質労働者)を派遣し、日本の技術を修得、帰国後本国の発展に寄与するという目的で、日中間で(外国人)研修生派遣制度が盛り上がっていた時代の話。研修生全体の4割を占める中国が最大の受益国、初めての出張には、研修協力財団の理事長(法務省出身)、常務理事(外務省出身、アラブ大使経験者)をトップにチーム結成、2週間ほど大急ぎで大陸を回ってきた。
印象にあるのは、美しい大連と北の瀋陽、シルクロードの起点西安(昔流にいえば長安の都)、今登り龍的な上海の3ケ所であった。
中国側パートナーは、各地区の共産党幹部、財界代表で国際経済技術貿易公司(日本で言う総合商社)の幹部たち。毎晩のように大きな丸テーブルを囲み、中国料理をこれでもかと用意いただき、白酒(パイチュウ)、紹興酒で乾杯・カンペ―の連続で盛り上がる大変な歓迎を受けた。
盃はそこが穴が開いていて飲み干すまで許されない。過酷な酒飲み大会でもあり彼らは笑顔で見守っていた。貧しい中国社会から意欲ある若者たちを選別、大量引受け、日本では全国の中小企業が受け手であり実地訓練、多くはないが給料も保証し無事に返すのだから、当たり前といえば当たり前の中国側対応ではあった。上海で聞いたが、2-3年日本で労働して貯金をして帰国すれば、上海郊外に家一軒建てられた、家族は皆喜んでくれているという説明だった。
個人的に忘れられないのは、西安(昔の長安の都)での出来事。シルクロードの入り口にあたる町だから、日本人にも憧れの町だった。正倉院のお宝グッズは皆このロードを通って日本にやって来た。
西安の公司幹部たちも、多くは教養人だった。目の前の中華料理に舌鼓を打ち、テーブルを囲んでは日中歌合戦ではないが、それぞれが知っている漢詩を披露しあう場となった。日本側も、飛行機内で岩波新書「唐詩選」など持ち込み一夜付けで覚えた「李白・杜甫や白楽天の漢詩」を、同行の通訳女史が翻訳し、めいっぱい勉強してきたことを披露する。
教科書レベルではあったが、彼らは大歓迎。
向こうのトップは善き老大人そのもので、嬉しそうに日本人が口にした漢詩を優しく説明をつけて教えてくれた。よく勉強されていると返した上に、HKさん(日本側通訳女史の名)、そこの中国語は、こういったらいいですよと、中国語の勉強会にもなった、和やかな夕食会であった。
後で知ったが、当時の会席では、料理が多く出され残してしまうので気になったが、それでいいんですよ、XX先生(日本人には皆シェンシェーと呼んでくれる)。後で公司の従業員用にお土産になるのですから、むしろ全部食べられたら彼らの分が無くなりますよと笑っていた。
それくらい当時の中国はまだ貧しい時代だった。
この時の西安夜の宴席が忘れられないのは、中国側の通訳女史姜雁鳴さんの存在。名前も雁が鳴くと聞いて驚いたこともあるが、今回初めて出会った中國美女だった。「鳴〈泣)かせてみたいぞ、中国西安の雁を」は心の中で。
姜(族)というベトナムに近い少数民族の出身。もらった名刺の裏にこっそり、今回一の中國美人とメモしたのが、帰国後会社の事務の女性に見つかって、暫く冷やかしの嵐だった。
こちらも覚えたての漢詩を夜会でいろいろ披露したことが、彼女に何らかの感情を抱かせたか、帰国時西安空港まで雁鳴さんが現れて、手紙を預かった。ラブレターかな、もう西安に滞在はできないがと思いながら開封した。
前夜の日本チームメンバーへの感謝、披露した漢詩合戦への御礼(日本人側の努力)がひとしきり述べられ、私の選んだ漢詩についても感激した旨が書いてあり、彼女が今勉強している日本の俳句をもっと上達したい、日本へも行きたいと結んであった。また彼女が特に好きな漢詩としていつも朗誦する歌の紹介もあった。有名な王維の「送元ニ使安西」だった。最後の2行がとくに有名、
君に勧む 更に尽くせよ 一杯の酒を
西の方、陽関(玉門関の南)を出づれば 故人無からん
空港で俳句の勉強兼ねて、必ず日本に行きますと固く手を握られたが、日本に来たら桜の宴に連れていくことを約した。隣で聞いていたもう一人の課長が、「姜さんの眼、腫れてますよ、本気みたいですね」と、揶揄う様にいう。はて西安の雁は、いつ飛んでくるだろうか。
時が過ぎ、2010年、中国経済が日本経済を規模(GDP)において抜き世界第二位になった。大変なニュースだった。
1998年の時に出会った善き中国の人達、老友達、そして愛しの西安の雁女はつつがなきや(まるで隋煬帝に向けた聖徳太子だね、それくらい当時日中関係は立場が逆転)。
あの時と変わらぬ、日本への好意を持ち続けている、善き中国老友達の健やかなることを祈るのみ。
投稿者:佐々木 洋 英語1973年卒