「そうだ、京都へ」、秦氏能楽(猿楽)から広隆寺聖徳太子像まで


ノー(能)・サンキュウとは、言わせません。
TV番組「プラチナ・ファミリー」(高嶋ちさ子さんと小泉孝太郎さんがMC)最近版で、能楽の観世流シテ 二十六世宗家 観世清和さん親子が出演され、能の大成者「世阿弥」以来の血統の繋がり文書を宗家からご子息に初披露されている場面を見た。
ご覧になられた方も多いでしょう、プライムタイムの放映。

これと同じような光景を、どこかで見た記憶がある。
観世流(小鼓方)の人間国宝、今や有名YOUTUBERでもある大倉源次郎さんが、赤穂市坂越にある大避神社(能・猿楽の祖と言われ、聖徳太子の右腕といわれる秦河勝をお祀りする神社)で、金春・観世流の秦河勝以来の繋がりを示す、先祖代々命より大事とする書物をご披露されていた。

秦氏の直系系統である金春流(金春禅竹が有名)が明記されており。分派という形で観世流(金春禅竹は世阿弥の娘婿)もその流れに入るのかな? 有名な「世阿弥の風姿花伝」では、観阿弥・世阿弥親子も秦河勝の血統を継ぐという説明が見られるが、証明されていないようだ。権威付けのにおいがプンプンだが、TVでは、観世流現宗家から、世阿弥以来の血統であることの説明があった。

雅楽の世界も、秦河勝につながる流れが太くみられる。
(大倉源次郎さんは、ミドルネームに秦氏を名乗っているらしい。先祖代々のやり方という。観阿弥・世阿弥親子のやり方を踏襲)。
有名な雅楽師の東儀秀樹さんも、家系は秦河勝につながっているとどこかで語っていた記憶がある。雅楽、猿楽、能楽の世界では、秦河勝との繋がり、権威が外せないということらしい。

秦氏といえば、全国稲荷神社総本山、京都伏見稲荷神社や聖徳太子の依頼で建立した広隆寺(国宝第一号の弥勒菩薩半迦思惟像)であるが、嵐山渡月橋から見られる葛野大堰跡(土木工事)や松尾大社(お酒の神様)、更に名前の由来機織りから、蚕神社が知られている通り。
日本のものつくりの背骨をつくられた帰化人の代表格。
今回は日本へ貢献大なる秦氏の文化面貢献;猿楽から能楽へ、世阿弥へつながるお能の道です、ノー(能)・サンキュウといわずに覗いていただくと嬉しいです。

能の演目は、神・男・女・狂・鬼と5ジャンルに分かれているが、基本は、「次第」:舞台始まり、シテ(主役)が登場物語の導入を示し、「中入り」を経て、シテの過去を語る。「次第」2で:再びシテが登場し、物語が展開「クライマックス」「後ジテ」(最後にシテ)が再び登場、物語を締めくくるパターン。

世阿弥自ら最高傑作〈上花也〉という、複式幽玄能「井筒」では、在原業平と紀有常娘との恋物語を、シテ里の女の形で昔の恋と異界からの「井筒の女霊」をたっぷり語らせる、恋愛の基本形のような演目。
「怨霊にこの世への未練をかたらせる」がお能の核心的形態と読む。

最近は、新作能もみられる時代だ。ノーベル賞級の免疫・分子生物学の権威、多田富雄氏も新作能を多作された。不勉強でまだ見ていないが「一石仙人(アインシュタイン)」「原爆忌」、「長崎の聖母」(いずれも核物理学から原爆をテーマに我々に問いかける)など作品多数。能面の下に隠された人間の静かなる悲しみ、怒り、現人類への挑発にはお能はうってつけの芸能、演劇形態かもしれない。

最近でも、外国人チームによる英語新作能、「オッペンハイマー」が8月の6日、9日の日本国特別な日に合わせ東京で公演があったと聞く。
世界中に日本のお能を紹介してくれる活動の様だ。

聖徳太子が、お能の貢献に尽くされた話はこれまであまり聞かないが、文化発展、更には民衆の長寿にもよいとされ、舞い手秦氏安に66曲もの演目を舞わせた記録が残るという。秦氏と太子の熱い関係から容易に理解できる。

さて暑い盛りだが、やがて眼にはさやかに見えねども風の勢いが変わりアキアカネが目に付く頃には、錦秋の秋も遠からず訪れるのだろう。
「そうだ、京都へ行こう」とワイフに迫られそう。

11月22日は、広隆寺で、聖徳太子御火焚祭(おひたきさい)がある。
運が良ければ、上宮王院太子殿の扉が開き聖徳太子33歳・等身大立像に立ち会えるかもしれない。何せこの像は、500年もの間(後奈良天皇から、明治天皇そして現上皇まで)天皇即位時の束帯、「廣蘆染桐竹麟御袍御束帯」(なんと読むの?
こうろぜん とうちくりん ごほうごそくたい かな?)を着用されておられるという。
へそ曲がりの身には、何故天皇でもない太子が、天皇の実際着用の束帯をまとっておられるのかと疑問がわく。
古代史を紐解けば、聖徳太子は当時一級の政治家であって、父用明天皇の後はいずれ太子か、ご子息の山背大兄王が天皇を継ぐはずであったがお仲間(太子お妃が蘇我一門)であった蘇我氏一族(入鹿)の謀略により太子一門総勢20名以上が命を絶たれたという。

その怨霊を封じ込めるために、建物では法隆寺の中門に柱が建ち(梅原猛「隠された十字架」)広隆寺では、法隆寺が焼けた後に、一時こちらに避難した太子派の方々が天皇束帯を身に着けていただくためのご尽力があったかもしれない。
本堂上宮王院太子殿の扉が開かずとも、入口格子戸の隙間からでも一目禁色束帯着用の太子立像を見てみたいものだ。(お前は、のぞき見野郎か?)

若いころ、1970年代後半、派遣されたカリフォルニアの日系銀行の米国友人たちに日本文化を十分説明できず、帰国後に慌て、京都二条にある観世会館通いしたものだ。当時片山博太郎・慶次朗(のちに九郎右衛門襲名)の両氏による観世流能楽を半分居眠りしながら観ていた文化伝統知らずの身を反省しながら。

投稿者:佐々木 洋 (英語1973年卒業)

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