「空海という生き方–東洋思想回帰を望む」 その1


近現代史においてアングロサクソン(大英帝国とその後継の米国帝国)に、この地球社会をコントロールさせ続けてきたことは人類の間違いだったと誰もが気が付いている。最近の米国大統領選をめぐる米国内混乱を見れば、この国が民主主義の旗頭の日があったこと忘れてしまう。これまで何度も「西洋の没落」が言われてきたが、代替的パワーになりうるNEW BRICS+(グローバルサウス)興隆のほうも、中国と昔からのインドとの確執も基本問題の一つ。これでは米国帝国に代わるカウンターパワー出現には時間がかかる。それでも、「西洋の没落」に代わる東洋思想とアジア台頭には期待したい
炎暑下の緑陰読書とはいかずとも、熱中症避けつつ上記世界情勢改善に光明を見出すべく「空海(774-835)という生き方」を焦点に、東洋思想回帰の一端を考える夏になった。
司馬遼太郎が、『空海の風景』で1200年前を書き起こしたが、空海思想の哲学的内容まで切り込まず、遠景を撫でたレベルに留まり「リアル空海」が浮かんでこない。平安仏教の時代風景、インド中国日本と3国をまたいだ先進文化である仏教哲学と、当時の地政学中心地域である東アジアにおける異文化交流のダイナミズムに触れずばリアルが見えまい。無神論の司馬遼太郎だから、宗教詳細には踏み込まないということか?宗教は「支配の道具」と彼の言葉にあった事が気になっている。

代わって思想哲学者の梅原猛はいう、空海の出現までは日本列島上に長い時間かけて形成された縄文以来の「原日本思想」が、民族的な思想の癖に留まっていた。奈良の三輪山に神を感じるなどその典型、と。
インドと中国の哲人たちが作り上げた東洋思想としての「釈迦仏教」(紀元前5世紀)や「大乗仏教」(紀元1―2世紀以降)の初期仏典類;例えば般若経・法華経・華厳経・浄土経あたりから当時の支配的な東アジアの哲学の骨格が浮かび上がってくる。
その大波を受けて、大陸から離れた村社会的わが大和国では、マザーネイチュアの自然神を有難く頂いてきた習性もあり人々は頭をくらくらさせて驚いたに違いない。上代の聖徳太子や奈良以降の支配層が必要とした「護国仏教」と受け取られ、司馬氏のいう民衆の「支配の道具」であったのは確かだが、学び取るだけの時代から創造的な才能が求められる時代が準備され、8―9世紀の「空海出現」の意味となって現れたものと解釈できる。
個人的には仏教といっても葬式仏教的にしか理解のないレベルだが、幼いころ祖父が曹洞宗系だと説明したことを思い出す。見回せば仏教寺院や信者数で多数派は、親鸞の浄土真宗、続く道元の曹洞宗(禅)あたりになる鎌倉以降の仏教が日本の宗教風土のようだ。日本で信徒数いちばんは親鸞の宗派。真宗開祖の親鸞はインド仏教開祖の龍樹(りゅうじゅ)の名は知っていたようだが、中国仏教・仏典やインドからのサンスクリット語の刺激に遭遇したのだろうか、日本に来たインド僧達と宗教論争したであろうか。

東洋思想という観点で、改めて「空海という生き方(西暦774-835年)」を眺めてみることで東洋思想の一端にアプローチしてみたいが、なにしろこの猛暑である。関連書物を巡り高野山の奥深く息づく空海思想への関心は、以下3項目に収斂した。①和語・漢語・サンスクリット語に渡る空海の言語能力、②顕教を超え真言密教を作った意味、⓷梵字を究めて開拓した言語哲学への道、である。

① 先ず空海が和語・漢語・サンスクリット語を駆使しながら真言密教という新しい宗派を建てたその言語能力のレベルの高さに驚く。外国語専攻した身としては、空海の長安留学2年という短期間において、漢語や梵語を自在に操り、外国人たちとのコミュニケーション力を身に付け、新宗派を建てるまでに上達するものだろうか。それが素朴な疑問。家族・教育環境から、当時の高級官僚エリートコースが約束されていた佐伯真魚(さえきまな、空海の幼名)の若き日。伯父で師匠の阿刀大足(あとおおたり)から漢語、梵語を含め手ほどきを得てかなりの知識レベルにあったろうことは想像が付く。そういう中、大学修習のなか密教経典「大日経」に巡り合い、秀才の勉強熱に火が付き、山岳修行を経ていつか長安留学実現への思いが募る。31歳で遣唐使として当時最大の国際都市長安に赴き、世界の数多の民族とそれらが信奉する多くの宗教に接して空海の知的好奇心は最高潮にあったのは想像に難くない。
その空海が長安から先、仏教誕生の地インドまで足を延ばさなかったのは、やはり衆生救済と祖国護国が先で、自身の「悟りの究明」は次善命題であったのか?

② 奈良仏教(南都六宗)から最澄(767-822)の天台宗まで、当時主流の顕教を超えるものとしての真言(言葉による宗教)派を作った意味はどの辺にあるのか?
幼き日から奈良仏教のシンボルであった大仏こと毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)を眺めては、いつかこれを超える仏教をと思っていたのは確かだろう、当時の奈良仏教は空海としては許せないまでに民から乖離し、衆生救済とは無縁なものだった。悟りの境地と衆生救済を実践してみせる空海密教への道が始まる。
(その2へ続く)

投稿者:佐々木 洋(E1973年卒業)

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